【オーナー特集】ホットケーキパーラー イタリアンダイニング 我家我屋

【オーナー特集】
ホットケーキパーラー イタリアンダイニング 我家我屋 オーナー:鈴木孝一


【歩み】
18歳の時に親戚が経営している喫茶店でアルバイトしたのが最初の飲食業界との接点だった。そこで、料理を通してお客様と触れ合うことに面白みを感じるようになった。高級なお店への憧れがあったので、その当時、富裕層がよく使うお店に目をつけて「DONQ」の面接にいった。どんな内容の面接だったかは忘れてしまったが飲食業界全体として盛り上がっていた時代だったので、入社させてもらった。すぐに東京六本木で軽食レストランのDONQサンドウィッチパーラーに配属になり最初は2ヶ月間ホールで接客を学んだ。その後は調理場に入ってサンドウィッチのメニューの調理法を教えてもらうようになり、20歳迄お世話になった。
地元、千葉県にはその後、千葉駅の三越百貨店に「DONQ」が出店することになったので、その時に戻してもらった。そこでは製パン部門に2年間従事した。
また、夏の暑い時期には軽井沢の銀座通りに3ヶ月間だけ「DONQ」が出張出店していたので、そこのスッタッフ選出され、避暑地を訪れる有名人を相手に仕事をさせてもらった。当時、芸能界を賑わせていた方々を目の前に仕事が出来たので非常に楽しかった。
その後は青山一丁目の三越バラエティストアにあった「クレープリードンク」に異動になり、26歳までの約3年間ここでデザート系のクレープ調理を教わった。東京でもかなり高級なエリアだったので、ここにも良く芸能人がきていたのを覚えている。そんな形で、料理人としてどっぷりと浸かった訳ではないが、8年間「DONQ」で飲食の基本を学ばせていただいた。
まだ26歳で好奇心も旺盛だったので、他の飲食も見てみたくなり、より高級な食品を扱っているお店をいつも探していた。そんな時に頭をよぎったのがSOGO百貨店に出店していた「万惣 フルーツパーラー」。当時、みかんの一粒が400円で販売されているのを見かけて驚いたのを思い出し、DONQを退職し、すぐに「万惣」の面接に行った。面接ではDONQ時代に別フロアで仕事をしていたこともあり、面接官とは非常に話が弾んだ。万惣もフルーツだけでなく、サンドウィッチなどの軽食も扱う部門もあったので、自分の経験とも親和性があり、その日にすぐに採用となった。フルーツ調理は未経験だったので1年間先輩に教わったのち、主任(実質店長)として29歳までの3年間お店の運営を管理してきた。
30歳の時には万惣がららぽーとにも出店することになったので、そこの店長に抜擢され、「万惣フルーツサロン」のマネジメントを32歳までの2年間行った。
その後はホテルニューツカモト(千葉港)で「ピュアセブン」というレストランの立ち上げから運営までを全て任せていただけるようなお話が舞い込み、それを指揮する会社に転職。そこでは他もいれると計7店舗の立ち上げを行い、飲食事業部の最前線で仕事ができた。いっときは営業成績が厳しい店舗もでてきたりしたが、全国の他の店舗もよく研究しに行っていたので、当時都内では流行りつつあったビュッフェ形式のレストランに目をつけ、営業成績が振るわない店舗で活用した。それが時代の趣向ともマッチしたこともあり大当たりし、業績の拡大とともに自身の実績をつくっていった。その会社では計11年間(43歳迄)仕事をさせてもらったのち、年齢的には若干遅い出発にはなったが、兼ねてから夢見ていた独立を決意した。独立するにあたっての出店先については元々、交流のあった稲毛海岸にビルを所有するオーナーから直接お話を頂いた。オーナー自身もビル内で喫茶店を経営しており、採算が合わないから独立したら好きなように使ってくれと言われていたので、すんなりとそこで出店することができた。出店を決めてからは開店日をすぐに設定し、逆算してスケジュールを組み2ヶ月でOPENさせた。ジャンルは「イタリアン」いままで、イタリアンの経験はなかったがイタ飯ブームの時代だったので、イタリアンの職人を雇い、学びながら経営。OPENまでの期間については今まで7店舗の立ち上げをやってきていたので、スケジュール的な不安はなかったが、固定費としてかかってくる家賃交渉には注意した。経験上、家賃は売上の10%に収まっていれば問題ないことはわかっていたので、売上の10%を払う形でビルオーナーと交渉し、了承を得た。9月から準備を行い、11月にOPEN。初月に500万円の売上を上げ、順調なスタートを切ることができた。
独立して2年が経った頃、当時、有名だった某商業施設から出店の依頼があり、了承。ただ、この選択が大きな間違いだった。1店舗目同様イタリアンレストランを出店(最初の店舗は職人に引き継ぎ)。売上の調子は悪くなかったが、毎日の売上を施設に納める形態だった為、施設の経営が難しくなると、自分のお店で売上た利益が、管理している施設側から戻ってこない状態になってしまい、のちに撤退することになる。施設が経営不振になる前からその兆候があったので、施設の従業員は現場で働いてもらって、自分は運転資金を確保するために千葉駅のビジネスホテル内にイタリアンレストランをオープンし、シェフとして従事。ただ、それだけでは施設がなくなった時の従業員の行き場が確保できなかったので、もう1店舗テナントがないか探し、千葉駅の西口になんとか一軒見つけ、そこにもイタリアンのお店を出店。施設がなくなってからは従業員を西口のお店に移し、なんとか全員がハッピーになれる形を作った。
その後、しばらくして、西口に出店したお店の状況が悪くなってきたのでそのテコ入れをする為、ビジネスホテルのお店は後進に引継ぎ、西口に異動した。そこで7年間奥様と一緒に大きく膨らんでしまった銀行からの借り入れの返済もしながら、再出発した。ただ、この西口のお店は7年間のみの契約だったため、7年後にはほかに移る必要があった。そこで人の縁で候補に上がったのがいまの我家我屋があるこの場所。ここは元々、千葉でも有名なイタリアンレストランで店主とは交流があった。以前から店主が奄美大島で隠居したいと言っていたので、若干隠居を早めてしまっう形になったが、快く了承いただき、この場所に移ることができた。
移ってからは、前のお店の知名度がすごかっただけに苦労もあったが安定した売上を出せるようになり、経済的にも精神的にも若干の余裕ができてきた(57歳)。
お店の看板メニューでもあるホットケーキをメインに提供し始めたのは直近5年間の話だ。経営が安定してきた時に万惣時代に自分が好きだったホットケーキをやってみたいという思いが強くなり、ポスター等の広告物をしっかりと制作して同店舗で自家製ホットケーキを前に押し出して提供したことがきっかけだ。すると、お客様から非常に好評とになり、前年とは比べものにならないほど格段に売上がアップしていった。現在ではイタリアンとホットケーキを組み合わせたランチセット等を展開し、ホットケーキパーラー 我家我屋としてお客様にご愛顧頂いている。
【取材担当者所感】
孝一さんとの取材を終えて、非常に苦労なさった方なんだなぁと思うとともに、全くそれを感じさせないくらいに、明るい方だなぁとも思った。孝一さんの今までの歩みを見て頂ければお分かりのように、独立されてからの行動の優先順位が「従業員の為」になっており、コストを削減する局面でも人を切る選択は一切されていない。お店の雰囲気も従業員の方の表情も自然体で気持ちがいいのは、孝一さんが従業員を家族のように思っているからなのだと感じた。良く従業員を家族と思えという表現は使い古されているが、なかなかその言葉通り行動するのは、雇用者と雇用される側の立ち位置が違う為、分かっていてもできない。だが、辛い局面で従業員を優先してきた孝一さんの姿はその言葉を体現しているようで、非常に感銘を受けた。


【後進へのメッセージ】
計画性が必要!なりたい自分、その方向性から逆算してシュミレーションすること。
毎日をぼんやりと生きていてはダメ。
そして、飲食で成功するためには商品に武器があり、従業員全員が笑顔の接客が出来る環境づくりが重要。

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